2013年04月27日

死体が道しるべだった。〜戦争体験者が語る〜

こんにちは。
住民の目線で地方政治にとりくむ、政治家(新城市議)を目指して活動しています。
浅尾 ようへい です。

大阪市淀川区で憲法改悪反対を訴える。治部康利(じぶ やすとし)さん 92歳は語ります。

「こんなひどい改憲は絶対にあきまへん。いくら美辞麗句で飾っても、通す事はゆるされません」自民党の改憲草案に話が及ぶと、口調が強く、鋭くなります。
大阪市淀川区の「9条の会淀川」が3月に開いた総会では、戦争体験を踏まえて、憲法改悪阻止を熱く訴えました。

この世の地獄のような戦場だった
1942年に現役徴兵されました。治部さんの部隊はは43年、パプアニューギニアでアメリカ軍に敗れ、道なき密林1000キロを退却しました。
「食料は無い。飢えて、飢えて、餓死者がでる」「夜、隣で寝た男が朝には死んでいる 地図もない 死体が道しるべだった」
徴兵の前に徴用されました。大阪の工業高校の建築科を38年に卒業し、大阪市役所に就職。しかし、国民徴用令が適用され、建築技術者として陸軍に2年間(39〜41年)21人いた建築科の同級生のうち7人が戦死しました。
戦争後は、市役所に戻り、労働運動・沖縄返還運動に参加しました。(中略)
「初めは意識していなかった」憲法と歩みが重なりました。「その基礎に戦争体験があります。まだまだ輪を広げていきたい」
文・写真 室伏敦さん

僕は当時の戦争の事は全くわかりませんが、戦争体験された方の話からは、戦争の悲惨さ。苦しさ愚かさを教えてくれます。そうした、愚かな戦争の大変な犠牲者の反省の上で、当時の日本の国民はこれからの未来の日本で、あらゆる紛争が起きた時には、戦争で解決する事を放棄して、すべて 話し合い(対話)で物事をおさめていく道を選んだのだと思います。つまり、平和憲法9条をつくったのだと思います。

今でも、あれだけ、マスコミが緊張を騒いでいた、北朝鮮ミサイル問題では、各国が戦争ではなく対話と協議で関係国が協力して努力しているので、ミサイルを押さえ込んでいるのです。

だから僕は たとえ、どんな状況であっても、思想信条を超えて 考えた時。
身体をはっても徹底的に平和主義、反戦主義、が これからの僕の理想です。

今日も、訪問してくれてありがとうございます。





< 2013年04>
S M T W T F S
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
過去記事
QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 26人
プロフィール
浅尾洋平
浅尾洋平
浅尾洋平(あさお ようへい)

1977年生まれ。
千郷小・千郷中・豊川高校卒
豊橋市立看護専門学校卒
1998年〜2009年豊橋市民病院、育児休暇取得。救命センターICU・手術室を経験
2009年〜2012年新城市民病院で看護師として勤務し退職。JPTEC認定取得(外傷病院前救護処置)
2011年度 新城市省エネコンテスト 削減率部門第3位受賞。日本共産党新城市福祉・子育て対策室長 2013年 新城市議に初当選し 現在3期目。
家族は妻、1男1女